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声のとどくまで

 私の人生で《成すべき事》として与えられた数々の出来事は、紆余曲折を経ながらも一昨年の平成二十六年(二〇十四年)十月、母を見送ることで、どうやら終止符が打たれた様子である。
 この時、既に私の年齢は七十八歳であった。
 一軒の家の中で、何時まで待っても言葉が返ってこない。この静まった様は異様である。
 私は自ずと、返ってこない言葉を探し求めるかのように、長年、物置に仕舞われたままの古い品々を取り出していた。

 引き出してきたものは、父と母が大切に使ってきたものが殆どであり、特に六十歳で他界した父にまつわる品は、布に包まれてから半世紀以上が経っている。
 気が付くと、正座する私の周りは立ち上がることが出来ない程の箱や布で囲まれていた。それぞれの品は久方振りに触れた外気で、手触りが柔らかくなったようにさえ感じた。

 中でも細い竹で編んだ《めしかご》は、直径二十一センチ、深さ十センチの小振りのもので、私の膝の上にのせているだけで編目や色から沢山の声が聞こえてくるのだった。
 母が十九歳で嫁ぐ時に《主》用として、《膳、小振りの飯櫃(めしびつ)、めしかご》などを持ってきたと聞いていた。
 私は中学生の頃まで、父親の御飯たるものは冬は櫃に、そして夏は竹かごに一人分取り分けて出すのが当たり前だと思っていた。
 私と母が冷たい御飯を食べている時も、父の茶碗からは湯気が上がっていた。母は直前に、父の茶碗二杯程度を蒸していたのだろう。
 又、このかごに限り、母は自分で丁寧に洗うのだが、一度だけ母に代わって私が洗ったことがある。細かい編目の間に入り込んだ飯粒を細い竹串で取り出し、麻の布を丸めて作ったタワシで、こすらず、滑らすように洗った。
 主を尊敬し、
「お父ちゃんはかしこいお人え」
 と私に自慢気に言って褒めていた母。
 その二人が夫婦でいたのは四十一年間だった。
 このめしかごも、その時を境として主を失った。

 片付けてあったことさえ知らずにいたが、めしかごの体(たい)と蓋は、母が主を大切に思ってきた真心が艶となり、柔らかい琥珀色になっている。
 この深い思いの色こそ《謙虚な美しさ》そして本当の美の色であることに気が付いた。
 一度は主への役目を終えたが、今一人残った私を再び主とすることを決めたのだろうか。
『今から多目的に使って下さい』
 と言わんばかりに、四畳半に懐かしい風景を私に設えさせ、その火鉢の横で姿宜しく、みかん三個と餅五個を抱え入れ、女主が落ち着いて座るのを待っている。
 初夏からは小花を活けるかごと化し、自らの美しさで小花を引き立てることだろう。

-fin-

2015.03

『年齢を重ねた現在(いま)の自分が最も美しいと思うもの』をテーマに書いたエッセイです。

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