top of page

出発の家

『本家』と、私の家が親戚筋の何処からも呼ばれるようになって、少なくとも百五十年以上になるだろう。

 一年を通じて、京都に毎月のように催される祭。春の祭は、私の住む紫野の『やすらい祭』で始まる。
 本家である私の家は、祭の始まる三日も前から『さばの押し寿し』作りで、私と母の体は酢の匂いに囲まれ、一つの部屋は『すし部屋』となってしまう。
 祭の当日、京都市内の親戚の端々まで祭寿司を配っていると、何時やすらい祭の一行が家の前を通ったのかもわからず、母と私は夕方グッタリと疲れてしまうのだ。

 正月は二日から本家への挨拶が始まり、仏壇に手を合わせた人々は後、順次酒の席に着く。
 正月の二日から三日に掛る時間まで、母と私は台所に立ったまま、正月用に作ったものの残りをつまんでいた。
「何んで、お母ちゃんと私は台所ばかりなん?」
 と聞く私に、
「大切な本家やから、一年の始め事はまずこの家に集まることから出発なんえ」
 と母は答えていた。
『この意味や色々のしきたりが、まず本家から』
 私は何の事やら、さっぱりわからないまま、しかし、父が半世紀以上前に亡くなってからも、母は毎年当然のように繰り返しているので、そうするものとして暮らしてきた。
 母は親戚の皆から『お姉さん』と常に呼ばれ、大切にされ、慕われてもいた。
 紋付袴で来るも酒の席では袴も羽織も取るので、私は小学三年生で袴を畳み、袴の紐を組んで畳む事も教えられていた。

 一旦、今まで行ってきた本家の役目も行いも、母の百歳で区切りをつけたものの、本格的に取り止めとなったのは、二〇十三年、母の他界を持って終了した。
 義理を欠くと思われてもかまわない。
 いとこ達六人は一同にして、
「何もかも終わったような気がするなあー」
 と言った。
 以後は、季節の変わり目にお互いの電話で『生きてます』と知らせ合っている。
 だが、思い返すと、我が家が背負ってきた『本家』という言葉の中には、
『常に気持を交わし合う』という、とても温かい意味が含まれていたのだと、懐かしくさえ今は感じている。

 十一月に入り、今度は私の友人達が、招いた訳でもないのに毎日数人、この家に入ってくる。
 この賑わう姦(かしま)しさを、すぐ横にある仏壇の中から
「正月の二日はまだどすやろ」
 と、母の写真が苦笑いしている。

-fin-

2016.11

『義理を欠く』をテーマに書いたエッセイです。

bottom of page