これも愛
悦子は十一月で七十五歳となった。
二階から降りる足取りもまだ軽やかである。
台所の隅に掛けてあるエプロンをつけながら、後一ヶ月の薄さになってしまった日めくりの一枚をはがし、
「お互いにわびしい枚数になりましたねぇー」
と、残りを撫でている。
横にある電話が突然、何時よりも大きな音でヂリヂリと鳴った。
「うるさい! はい、はい、はい、今出ます」
受話器を持ち上げ、耳元に持って行くその動作の途中で、すでに相手からの声が聞こえている。
「お久振りでーす。今も愛しているよ」
相手が笑顔で話している様子が、手に取るように伝わってくる声のトーンである。
その声を聞きながら、彼女は心の内で、
『ああ、二十年……』
と、そう思った。
電話の声は、半世紀余り前、まわりの誰もが二人は結婚するだろうと思っていた、それ程愛し合っていた洋次からだった。
互いが二十五歳の時、悦子が変なことを言いだした。
「洋ちゃん、十年先、覚えていた方が先に電話を入れる。そして次の何十年か先に電話をするかを決める」
洋次はこの言葉に何の抵抗も見せず、
「いいねぇ。面白いかも」
と答えた。
『えっ?! 洋ちゃん、本当にそれでいいの? 電話を入れるっていうのは、別々に暮らしているということになのに』
その瞬間、悦子の身体から何か憑物が落ちてゆくのを感じた。
「じゃ、一回目は十年後、二回目からは二十年後にしましょう」
彼女は自分から言い出した言葉で、彼との結婚をあきらめたのだった。
先の洋次からの電話を切った日から二日後、二人は東京ホテルのロビーにいた。
「悦ちゃん、お互いに一人になったし、今からだったら一緒に住めるのとちがうかな……」
悦子は洋次の顔をちらっと見て、大きな溜息をついた。
『この人は、まだこんな甘いことを言っている』
そして彼の話をそらし、
「もう次は二十年先というわけにはいかないでしょう。どのようにしましょうか?」
じーっと話を聞いていた洋次は、ふっとかすかに笑いを含めて、
「ぼくは以前のまま、悦ちゃんを愛しているけど……悦ちゃんは僕のこと、愛していたわけではなかったのかも……」
と言った。
「洋ちゃん、今頃になって、よくもまあ……。じゃあ、どうして? 私が十年後、二十年後に電話を云々(うんぬん)と話した時、その場で否定してくれなかったの?」
悦子の問いには答えず、洋次は気恥ずかしそうに頭を掻いて、
「でもいいや。残り少しの人生だ。一年後、次は悦ちゃんから電話を掛けてもらうことにしましょう」
彼は優しい目を悦子にそそいで、そう言った。
-fin-
2016.12
『〝~しましょう〟のシーンを入れてフィクションを創る』をテーマに書いたフィクションです。