いう花、きく花、とらえ花
「ちょっとしんどい二人旅」
この旅が始まったのは母が八十三歳、私が五十七歳の時で、原因は母の大腿部骨折だった。
後、七年間は私も仕事をしながら、手を貸す程度の介助で済んでいた。
杖から車椅子へと変わると同時に、私の生活も母中心の介護生活へと変わっていった。
まだお互いに体力も残り、私は満足を与えてあげたいと頑張りすぎるため、その反面でストレスも溜まっていた。
ある日、車椅子を押して京都府立植物園に出掛けた。我が家からなら一時間弱で着く場所だが、普段全く気に留めていない道路の凸凹や傾斜のきつさのために、腕にも腰へも倍の負担が掛かる。
つい言葉も強くなり、
「おばあさん! 体を左右に動かすの止めて!」
と叫んでしまった。
「へえ? 役に立ってまへんか? 大変な道、少しでも助けようと思って、私も舵とってたんえ」
「その思いやり無用! まわりの景色を動かずに見ててちょうだい」
「そおどしたか。かんにんえ、おおきに」
この素直な言葉で私の気持ちも少し和み、腕と腰に必要以上に入っていた力もゆるんだような気がした。
私の中で期限のない介護はこの辺から少しずつプラス志向に変わり、
《見つけます。もらいます。笑います》
と切り替わっていった。
介護される側の母は私よりも二十六年も前から体に歴史を貯え、それなりに深く刻まれたものもあるに違いないのだ。
蜘蛛と同じく、母の体が貯えた糸を私の手元へ手繰り寄せようと思い付いた。
風呂に入るにしても、私達二人には大変な作業である。
それまではお互いに湯船の中で笑うことなど余りなかったが、垂れ下がる皺が湯船の表面に浮く様を見て、
「何に見える?」
と訊くと、母は、
「段々畑に水を張ったようですなあ」
と言う。
全く別の処で別の物体のような顔をつくる皺で、一時(いっとき)だが会話が生まれ、笑いも生まれた。
風呂から上がり母の背に廻ると、今度は逆さ富士を見つける。下がりきったお尻は湯で温まり、夕日を受けた逆さ富士に似ている。
私だけが見える形なのだが、母はタオル一枚を巻いた姿で体を捩(よ)じらせて笑う私の姿が面白いと一緒になって笑う。
少なくともその一瞬の笑いは、介護される母側から提供され、する側の私が受け取る。
私達二人の共同作業で生まれる大切な作品であった。
晩年、
「もう何もかも忘れました」
と母は言った。
私は、
「その分、十二分(じゅうにぶん)にもらい受けました」
と返し、二十年に近い二人旅は終わった。
-fin-
2014.12
『視点を変える』をテーマに書いたエッセイです。