しのびよるもの
平成二十九年二月十七日、京都は一日中小雨が降り、底冷えのする日だった。
夜、まだ八時だったが、私は床に就いていた。
突如として耳元のケイタイが鳴った。
神戸に住む私と同じ八十歳の友人からである。
彼女は開口一番に、
「困ったことになってんよ。匂いが全くしないんよう。鼻が効かんようになってんよう。なさけないんよう」
電話の声は言っている事とは反対に、何時もよりやたらと大きい。
私は彼女に聞き返した。
「耳はどうなん? 今、私が普通のトーンで話してる声、聞こえてる?」
それには全く反応もせず、困った、困ったことになったと一方的に話している。
十五分ばかり話した末に、
「あんた、聞いてくれてんの? 少しは同情してえなあ」
と彼女が怒り出した。
この上は布団にもぐって、私も大声を出すしか方法がない。
「聞いてるよ! あんた、耳はよう聞こえてるの? 味覚は大丈夫なん?」
思いも寄らぬ夜更けの大声問答で汗が出た。
翌日、私は彼女に手紙を書きながら、百三歳と数ヶ月で逝った母の場合のことを思い出した。
九十五歳を過ぎた頃、一緒に沈丁花(じんちょうげ)の咲く横を通った時、
「地味な花の色なのに、何ともいえん程かわいおすなあ」
と言ったが、あの強い沈香にも似た匂いのことは何も言わなかった。その頃から耳も随分と聞こえなくなった。
彼女の電話で少なからず私自身も不安になり、夜眠る前に必ずCDで聴く朗読のトーンを最小限にまで落とし、その音がまだ聞こえることに安心をする。
その一方で小さくした音を聴きとろうと、神経が必要以上に集中し、いつもなら心地よく何時の間にか眠っているはずが、眠りの精もおりて来ないまま朗読も終わってしまう。
切実な彼女の訴えを聞いて、
『私はどうだろうか?』
と試してみる。
たとえて言うならば、お互いに老いゆく私たちは〝明日は我が身〟の毎日を過ごしているのである。
『味覚はどうなんえ?』
『料理も手抜きなしで朝夕つくるんよ』
等とくどくど書いた手紙を持って、結局、私は二時間余りを掛け、神戸の西区で裏山の下は宝塚だという山頂に住む友人の家まで出掛けた。
体力を使ってでも、ひたひたと何時の間にかしのびよるものへの互いの恐怖を少しでも和らげ合うためであり、これもまたたとえて言うならば〝同病相憐れむ〟ことからの慰めにすぎないのである。
-fin-
2017.03
『〝たとえて言うなら〟のフレーズを入れる』をテーマに書いたエッセイです。