三人の非国民
一九四四年(昭和十九年)は、太平洋戦争の真っ只中(まっただなか)で、私は国民学校二年生になっていた。
国全体で〝欲しがりません勝つまでは〟とスローガンを掲げ、父は京都で呉服商を営んでいたが、そんなご時世ではなかった。
両親と私は、父の故郷である丹波の山奥に帰り、自給自足の暮らしを始めていた。
周囲は山ばかりだった。
私にとって『海』は、絵本や音楽の時間の歌詞から想像するだけだった。
魚と言えば、川で捕れる十センチばかりの小鮒(こぶな)か、時々はウナギやドジョウだった。
小鮒捕りは、子供に与えられた仕事だった。
バケツとざるを持ち、三人一組で川や川から分かれた細い溝に行き、魚を追う者とざるで受ける役目を交替でして、魚を捕った。
捕れた魚は、その家族の人数に見合った数で分け合った。
川魚は少々泥臭い事と、一匹の全てを食べるために、一度番茶で煮てその後、自家製の醤油と、保存用に塩漬けしている山椒の塩をもどし、一緒にコトコトと煮る。
手作りのほろ甘い醤油の匂いは、がらんとした田舎家の隅々まで渡った。 私は自分が捕ってきた魚が、その日、家族の食べる一品に加わっている事が誇らしかった。
ある時、父が
「家族三人で、宮津港(みやずこう)の漁師の家に、魚を食べに行こう」
と言い出した。
宮津は、京都府北部にある若狭湾に面した所だ。
世の中は戦争色で囲われ〝贅沢は敵だ!〟と、叫んでいる最中であった。
母と私は父の無謀な考えに驚いたが、新鮮な魚の味と匂いを想像すると、今は我慢する時代の事などすぐ忘れてしまった。
朝五時前に起き、最寄りの駅まで一時間ほど歩いた。
空襲警報の出る度に汽車から下りて、よく伸びた草むらや、枝の張った木に身を隠しながらの道中だった。
午後三時か四時頃だったろうか?
漸(ようよ)うにして宮津に着いた。
宮津港は戦艦が並び、魚の色など何処(どこ)にもなかった。
諦め切れない父は、知り合いに元漁師を紹介してもらい、私達はやっと何とかその家で落ち着いた。
暫(しばら)くすると、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきて、三人の腹はグルグルと合唱した。
焼けた魚は鯵(あじ)の一夜干し、煮た魚は鰯(いわし)の梅煮だった。
たとえ農家で米を作っていても、収穫すれば、その半分は戦地で戦う人のために供出(※きょうしゅつ)しなければならなかったので、麦だけを煮たものが御飯代わりに出た。
その頃は誰もお金などいらなかった。
他の物資の方が有難がられたので、父はモンペに出来る、木綿の布を渡した。
その家の奥さんは嬉しさの余りに、涙を流して喜び、とうとうその家で一泊させてもらった。
が、半分戦地のような場所に来ているのだから、夜中も落ち着かず、私は一晩母の膝の上で眠った。
初めての海も見た
大海を泳いでいた魚も食べた。
父は、
「非国民な行いを知って贅沢したんや。絶対、他人(ひと)に言ったらあかんのえ」
と、母と私に言って聞かせた。
※供出(きょうしゅつ):戦時下、法律により食糧や物資などを、政府が民間に一定価格で半強制的に売り渡させること。
-fin-
2020.02
『作者の好物の魚や魚料理にまつわること』をテーマに書いたエッセイです。