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表札が神木となった五日間

 京都の北区紫野は『源氏物語』の作者『紫式部』の墓があり、式部の寺『大徳寺』も紫野にある。
 その紫野学区に私は住み、二人の息子と一人の娘を授かった。

 学区で定められた小学校は、我が家から西へ徒歩三十分の距離である。
 それに比べて国立の『京都教育大学附属京都小学校』は同じ紫野で、私の家から出て五十メートルで校門に着く。
 私達家族は、この学校から聞こえてくる様々な声や音を、生活の中に交えながら暮らしてきた。自分の子供はこの小学校と決めていた。
 にもかかわらず、昭和四十年(一九六八年)長男が小学校に通う年齢となり、家の裏にある国立のこの学校には『入試制度』のあることを初めて知った。
 そして更に合否の決まった後は『くじ』を引き、最終的に合格者決定となることも知った。
〝本命は『くじ』にある〟と私は思った。
 しかも『くじ』を引くのは無心な子供である。
 幸い『くじ運の神』の加護を受け、長男は合格した。長男から三年後に長女、七年後に次男と、三人揃って我が家から近い距離の学校に通えた。

 三人目の次男が入試を受けた昭和四十九年(一九七四年)の翌年(昭和五十年)のことだった。
 玄関に掛けてあった表札が雲隠れした。
 表札など、あるかないかと毎日確かめて暮らしているものでもなく、郵便配達人の言葉で消えているのを知った。無くなった原因は全くわからない。
 配達人から聞いた時は、無くなってからすでに四日程経っていた。
 すぐに表札屋に注文した。
 その翌朝のことだ。元あった位置と寸分違わない処に、澄まし顔で表札が戻ってきて掛かっている。
 表札がこの五日間の経緯(いきさつ)など話すわけもなく、私は戻ってきたことを良しとしようと思った。

 表札の戻ってきた日の夕方、見知らぬ若い夫婦が子供をつれ我が家を訪れた。
 その夫婦が話すところによると、
『二人または三人、望む学校に合格した家の表札を、合否の決まる日までの期間、黙って借りれば望みが叶う』
 ということだった。
 私は、自分勝手な話だと思ったが、そのようなことをしてまで、教育大附属小学校に通わせようとする親と、その通りに操られる子、どちらも気の毒になったのと、一方で何だか馬鹿くさくなった。
 私は〝ご丁寧に〟とも〝わざわざ〟という言葉もつけず、
「ご苦労様なことでございました」
 と一言だけ言った。

 三人の姿を見送り、入り口を見上げた。
 夜更けに、見知らぬ人の手で外されたり、戻されたりした表札に、
「あんた、五日間神木になってたんやね」
 と労いの言葉を掛けた。

-fin-

2016.09

『嘘のような本当の話』をテーマに書いたエッセイです。

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