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短すぎた道連れ

 毎朝の通勤電車に乗り込む人たちの顔は、目的の電車が近づいてくると、たちまちにして闘争態勢の顔に変わる。
 新子(しんこ)が、このホームに並ぶようになって、早くも八年が経ち、後一年で三十歳になる。
 恋人をつくりたいと、無性(むしょう)に思ったこともあったが、そのことも今では面倒になっていた。
 それでも気が向いて百貨店に出掛けると、化粧品雑貨のところなど覗き、口紅の新色をちょこっと、唇にひいてみたりもするのだ。

 春になり、久しぶりに心も弾んだ新子は、しきりに『つけまつげ』のケースを覗いている。
「つけまつげ、合わせてみましょうか?」
 と、店員は新子の返事も待たず、まつげを取り出し、おまけに彼女の目元の幅を目算している。
 素早く、ぴったりの寸法に切り
「どうぞ」
 と、新子に脚高の椅子をすすめた。
 操られるように新子が座ると、店員は人形の目でも扱うように、いとも簡単な仕草で、彼女の目にまつげをつけた。
 そして自分で頷きながら、
「あーら、やっぱり思った通り! 本当にお似合い。このままつけてお帰り下さい」
 その言葉に一瞬新子は、
『サービス?』
 と心の内で思ったが、口から出た言葉は
「おいくら?」
 と尋ねていた。

『目は口ほどにものを言う』
 格言は嘘ではないらしい。新子はどこか自分でも意識して、いつもよりは数回多くまばたきをして歩いていた。

 帰路の電車も混んでいた。
 背の高い男性二人の谷間に入った彼女の体は、電車のゆれるがまま、間を交互にゆれている。
 新子が乗る一時間の区間に、電車は二つの市で、つめ込んだ人間という荷物を降ろして行く。
 立っていた男性の一人が、読んでいた文庫本をしまいだした。
〈ガッタン!〉
 しゃくるようにして電車が止まった。
 すでに先の男性は、出口に向かう列の中にいた。
 ふっと新子は、自分の片方の目の前が心なしか明るくなったように感じた。とっさに、
『つけまつげがとれてる……』
 と思った。
 足元や胸元にもついていない。自分の顔前にあった男性の背中を思い出したが、時すでに遅く、つけまつげは男性の背中にしがみつくようにしてゆれていた。
 戸が閉まり、出るに出られなくなった新子は、片道の数十分を共にした、もう一方のつけまつげの目を、鏡に映して記憶にとどめた。

-fin-

2017.04

『〝その場所、またはその部屋から、出るに出られない〟話を創作する』をテーマに書いたフィクションです。

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