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ある臨月の一日

 一九六八年(昭和四十三年)当時私の家族は、貧しくとも田舎の山寺でのんびりと育った夫と、何時(なんどき)と云えどもケセラセラの養母、そして九歳の長男に六歳の長女、その五人が京都の北で暮らしていた。
 
 年も明けたこの昭和四十三年の三月、私は三人目の子の臨月に入っていて、何時(いつ)陣痛が起きてもおかしくない状態になっていた。

 そんな中、ある朝、夫に急な東京出張が入った。
 留守にする事を気遣い、一人でも引き受けようと考えたのか
「長男を連れて行く」
 と言い出した。
 私は重い体を引きずるようにして、二人分の着替え等の用意をし、テンヤワンヤの末、送り出してホット一息ついた。

 すると、滅多に自分から誘いの電話をしない母が友人と何やら約束を交わしている。
 話を終えて、受話器を置くなり
「私も今から二泊三日で大塚さんと温泉に行ってきますわ。ここに旅費とお小遣い入れてネ」
 と、何時ものように綴れ織りの財布を渡した。
「えっ!? 私の臨月、わかってますやろ?」
 と云うと
「それより、私の生き甲斐になっているあの子(長男)を、パパさんが東京へ連れて行かはりました。私も何処(どこ)かゆきとうなって」
 と、私の現状など忘れている母がいた。
 私は子供を身籠った経験の無い人の相(さが)を理解し、快(こころよ)く旅の用意を整えて送り出した。

 家には六歳の長女と私だけがポツンと残った。
 朝からの慌ただしさを黙って見ていた娘が、突如
「私も何処(どこ)かにゆきたい」
 と云い出した。
 無理からぬ事である。私は歩いて二十分程先にある植物園へ行く事にした。
 娘は急いで作ったおにぎりを芝生の上で食べ、心ゆくまで遊具で遊び、すっかり機嫌も良くなった。

 一方で臨月のお腹は一段と下がっていた。
漸(ようや)く家で落ち着いた頃、次は自分の事が心配になって来た。
『今、この家にいるのは私と娘だけ』
 そう思うと、電話機が目に飛び込んできた。
 事の次第を病院に話し、娘を連れて入院するべく病院へと向かった。 
 歩いて十分も掛からない病院までの距離が、この日は気が遠くなる程の長さに思えた。
 右手に荷物、左手は娘の手を必要以上の力を入れて握り、ようようにして病院の玄関に辿り着いた。

 私が今も覚えているのはこの辺り迄で、今もって次男の第一声も、言葉で言い表せない陣痛の事も全く覚えていない。
 疲れ果て、病院の玄関を潜(くぐ)りホットして気を失ったらしく、数時間後に気が付いた。
 ふと自分の横たわるベッドの隣を見ると、まだ名前もない赤子が
『自分は自力で出て来たんだ』
 と云わんばかりに、両手を自在に動かし、大声で泣き叫んでいた。
 昭和四十三年三月三十一日の事である。
 この日以前は勿論の事、それ以後も
『この日ほど、一日が濃密で短く過ぎた日は無かった』
 八十数年の人生を振り返り、改めて思っている。

 

-fin-

2020.08

『今までの人生の中で、最も短く感じた一日』をテーマに書いたエッセイです。

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